一つの問題がある
回答を書く
×がつく
確かに不正解だが
それがどうした
その答えは間違いではあるが
経験という物差しで計れば
それは間違いではない
その答えが間違いと知る事が出来たのだ
それは血となり肉となり糧となる
ならば実に有意義な間違いではないか
無駄など無い
人生は長いのだ
誰もが間違いをする
間違いを恥とする心もまた無駄ではなく
また糧。
糧に損は無い。金銭、健康、信頼、それらを失う事もあるだろう。
だが、それもまた我を構築する糧となる
そういった経験の積み重ねが我であり
また我と言う存在も他の存在の糧となる
その連続が昔から今へ連なっているのだ
それらを糧に出来ぬ存在もあるかもしれない
しかしそんな存在もまた他の糧になる
私もまたそんな存在に成りつつあったが赤卵さんが私を見捨てなかった
そして私も気付けた
まだまだ至らぬ私だが、
気付いたのだからまた歩もう
尊い
赤卵さんの手を振り払う事も容易い事だった。
いつも通り「うるさい!」と縁を切れば終わるのだ
それはとても容易い
しかし私は気付いたのだ
彼の叱咤を受け入れ、自らを見直すもまた、容易い、と
私には彼のような叱咤を暮れる人間関係があるのだから
勿論それにおんぶにだっこではいけない
気付いたのだから、助けられたらのだから自分の足で歩けるのだ
気付くまでが長かったしこれまでに無くした物もまた多すぎたが
それらがあったからそれらが糧になったから今気付けたのだろう
有り難う
有り難いは文字通り難い物だが見方を変えれば有り安い物なのだ。
それを知れたのならば有り難うと言う言葉のなんと素晴らしい事か
最初の問題の不正解の回答、これもまた見方を変えれば同一の答えでも不正解に成らない事もある
見方を変えずとも状況が変われば不正解に成らず
日々は流動的であり
我もまた流動的である
一日一秒一瞬が常に尊く
感謝もまた絶えない
憎しみもまた糧成れば愛であり尊い
有り難う
まだまだ稚拙な私なので、思った事を並べただけの支離滅裂な文章ではあるが
読んでくれて有り難う
回答を書く
×がつく
確かに不正解だが
それがどうした
その答えは間違いではあるが
経験という物差しで計れば
それは間違いではない
その答えが間違いと知る事が出来たのだ
それは血となり肉となり糧となる
ならば実に有意義な間違いではないか
無駄など無い
人生は長いのだ
誰もが間違いをする
間違いを恥とする心もまた無駄ではなく
また糧。
糧に損は無い。金銭、健康、信頼、それらを失う事もあるだろう。
だが、それもまた我を構築する糧となる
そういった経験の積み重ねが我であり
また我と言う存在も他の存在の糧となる
その連続が昔から今へ連なっているのだ
それらを糧に出来ぬ存在もあるかもしれない
しかしそんな存在もまた他の糧になる
私もまたそんな存在に成りつつあったが赤卵さんが私を見捨てなかった
そして私も気付けた
まだまだ至らぬ私だが、
気付いたのだからまた歩もう
尊い
赤卵さんの手を振り払う事も容易い事だった。
いつも通り「うるさい!」と縁を切れば終わるのだ
それはとても容易い
しかし私は気付いたのだ
彼の叱咤を受け入れ、自らを見直すもまた、容易い、と
私には彼のような叱咤を暮れる人間関係があるのだから
勿論それにおんぶにだっこではいけない
気付いたのだから、助けられたらのだから自分の足で歩けるのだ
気付くまでが長かったしこれまでに無くした物もまた多すぎたが
それらがあったからそれらが糧になったから今気付けたのだろう
有り難う
有り難いは文字通り難い物だが見方を変えれば有り安い物なのだ。
それを知れたのならば有り難うと言う言葉のなんと素晴らしい事か
最初の問題の不正解の回答、これもまた見方を変えれば同一の答えでも不正解に成らない事もある
見方を変えずとも状況が変われば不正解に成らず
日々は流動的であり
我もまた流動的である
一日一秒一瞬が常に尊く
感謝もまた絶えない
憎しみもまた糧成れば愛であり尊い
有り難う
まだまだ稚拙な私なので、思った事を並べただけの支離滅裂な文章ではあるが
読んでくれて有り難う
「つきあっていても、つきあえていないのなら、つきあっていないのと同じこと
つきあっていないくても、つきあえているのなら、つきあっているのと同じこと」
これを理解するのに10数年かかってしまいました。
無駄な時間をすごしたようにも思えましたが、
これもきっと次の出会いのために必要な手間なのだろう、と考えると、
生きるのが楽しみでしようがないのです。
本題の前に閑話を一つ失礼します。
今の十代の考えが、今の自分に追いついていると感じます。
今の三十代の考えが、六十代の考えが、今の十代より遅れていると感じることが多々あります。
今の十代の考えに、「物事の核心を突いている」と思わされることが多く、
逆に三十代、六十代に対して「終わっている」と思わされることも多く、
尊敬できる年上世代の人間は、本当に心から尊敬できます。
生き方のせいか、生まれのせいか、尊敬できない出会いの方が圧倒的に多く、
そして自分自身の尊敬できない半生を思うと、
とてもじゃないが結婚する気にも、子どもを授かる気にもなれませんでした。
考えを、理想を、捨ててしまえば簡単にできると、安易に尊敬できない先人のように、
考えることをやめて、尊敬できない周囲に望まれた道へ堕ちようと決めていましたが、
ここ1年で急激な変化が起きました。
尊敬できる人間との出会いが多くあり、
「ああ、先人の徳の所為で生きてきた尊敬できない半生はもう終わったのだ」と思いました。
残りの人生は、拙いながら自分自身で積んできた徳で決まるのだとしたら、
これからが人生のやり直しだと思えば、生きている内にどれだけ、
魂の品格を高められるかと考えれば、なんと楽しみなことかと思います。
本題に戻りますが「つきあって」という言葉を私が初めて使ったときは、
「彼氏彼女」という「特別な関係」になり、「特別な優遇」を受けるべく、
その言葉を相手に発し、お断りされました。
以後、私は「つきあって」は相手に言わせるものだと解釈し、使用しました。
あるいは、あと「つきあって」を言えば「つきあっている」になる状況なら使うものとして、使用しました。
「つきあって」とは何であるのか考えたところ、
わざわざこの言葉を発するのは「束縛の契約」をさせるためだと考えました。
そして「別れましょう」と発すると「束縛の契約解除」になるのです。
この「つきあって」は「行動につきあってもらうとき」にお願いする言葉であって、
交際においてわざわざ言う必要のあるものでは、必ずしもないであろうと考えられます。
なぜなら交際とは友情、愛情という「心の通じ合い」「心の絆」によって、
結果的に、自発的に、「つきあっている」状態になるのであって、
必ずしも「友達になろう」「恋人になろう」と言ったからといって、
突然その通じ合い、絆、関係が構築されるとは限らないからです。
―「つきあって」の契約によって「つきあっている」状態は必ずしも「通じ合っている」とは限らない。
交際することを2つに分けるのならば「つきあっているからつきあっている」のか
「つきあっているわけじゃないけどつきあっている」のだと思います。
こんがらがらぬよう、ひもときます。
「つきあう」という契約をしたから「つきあっている」関係と、
「つきあう」と契約をしたわけではないが「つきあっている」関係です
私は「つきあう」という契約が、ずっと続くものと思い込んでいました。
しかしそれは私の脳が、身体が思い込んでいたもので、
私の心が、魂がそれにひっかかりを感じていました。
そして至ったのが、私が求めている「つきあう」とは契約上の関係ではないということです。
私の理想は、一瞬であり永遠であり、不滅である、不垢の絆でした。
契約によって続いていた関係は解除すると簡単にその縁は離れていきます。
まるで本当に消費者法で決められた取引のように、契約解除でいとも簡単に関係がなくなるのです。
つきあっているは、通じ合っていないのであれば、つきあっていないのと同じだと考えました。
そして、通じ合っているのであれば、「つきあって」の契約など不要で、つきあっていることに至るのだと、
そこで考えが整いました。
私は今までの契約による「恋愛関係」は信用足りえぬと思いました。
今後、良い縁が巡るような生き方へ向かい、徳を積むのみだとわかると、
とてもすがすがしい気分になりました。
今度は、身体の思い通りにはさせまいと誓い、
私の魂が求める魂に巡り合うのを、ただ待つのみです。
別れた恋人がその人ならば、契約などなしにまた還ってくるでしょうし、
またそうでないのなら、離れていくのでしょう。
一生寄り添うかもしれぬ相手を、条件反射や、身体の欲望に決めさせるなんて、
私にはできません。
半生、大切なことに気づけぬ子がまた生まれてしまうから。
私は私を受け入れますが、私の子に私が歩んだ人生をとてもではないが、与えたくありません。
そのような可能性があるお付き合いは、今後一切断ち切るべしと、心に誓いました。
生まれたことに、両親に、先祖に、世界に感謝できず、半生恨み抜いた私の思いは、
決して子に味あわせたくないのです。
私は私の育った環境を良く思えません。
運が良かったとは思います。
こうして抜け出し、残りの人生でやり直しができる縁にめぐりあえたのだから。
今は、とても前向きで、生まれたことに、ここまで生きてきたことに、
そうさせてくれた全てに、感謝できます。
幸福になるために、手に入れなくてはいけないものなど何一つないと気づきました。
ただ、手に入れたものは、他人を幸福にすることや、救うことには使えるのだと思います。
自己の幸福に必要なものは、生まれたときに全てそろっていると考えます。
「私が幸福になるために、欠けているものなど何一つない」と、
心から思えるきっかけに運良くあえたのなら、人はたちまち幸福になるのだと思います。
これからはいざ他人を幸福にする機会が訪れたときに、
使えるものがあるように、ものを手に入れたいと思うし、
自分の幸福のためには、心を磨くことそれのみに没頭しようと思います。
「つきあっているはつきあっていない つきあっていないはつきあっている
有は無 無は有」
「言葉で縛ること、力で縛ることは有限
心で通じ合うこと、魂でつながる絆は無限」
すり鉢の底から、解放の兆しが見えました。
つきあっていないくても、つきあえているのなら、つきあっているのと同じこと」
これを理解するのに10数年かかってしまいました。
無駄な時間をすごしたようにも思えましたが、
これもきっと次の出会いのために必要な手間なのだろう、と考えると、
生きるのが楽しみでしようがないのです。
本題の前に閑話を一つ失礼します。
今の十代の考えが、今の自分に追いついていると感じます。
今の三十代の考えが、六十代の考えが、今の十代より遅れていると感じることが多々あります。
今の十代の考えに、「物事の核心を突いている」と思わされることが多く、
逆に三十代、六十代に対して「終わっている」と思わされることも多く、
尊敬できる年上世代の人間は、本当に心から尊敬できます。
生き方のせいか、生まれのせいか、尊敬できない出会いの方が圧倒的に多く、
そして自分自身の尊敬できない半生を思うと、
とてもじゃないが結婚する気にも、子どもを授かる気にもなれませんでした。
考えを、理想を、捨ててしまえば簡単にできると、安易に尊敬できない先人のように、
考えることをやめて、尊敬できない周囲に望まれた道へ堕ちようと決めていましたが、
ここ1年で急激な変化が起きました。
尊敬できる人間との出会いが多くあり、
「ああ、先人の徳の所為で生きてきた尊敬できない半生はもう終わったのだ」と思いました。
残りの人生は、拙いながら自分自身で積んできた徳で決まるのだとしたら、
これからが人生のやり直しだと思えば、生きている内にどれだけ、
魂の品格を高められるかと考えれば、なんと楽しみなことかと思います。
本題に戻りますが「つきあって」という言葉を私が初めて使ったときは、
「彼氏彼女」という「特別な関係」になり、「特別な優遇」を受けるべく、
その言葉を相手に発し、お断りされました。
以後、私は「つきあって」は相手に言わせるものだと解釈し、使用しました。
あるいは、あと「つきあって」を言えば「つきあっている」になる状況なら使うものとして、使用しました。
「つきあって」とは何であるのか考えたところ、
わざわざこの言葉を発するのは「束縛の契約」をさせるためだと考えました。
そして「別れましょう」と発すると「束縛の契約解除」になるのです。
この「つきあって」は「行動につきあってもらうとき」にお願いする言葉であって、
交際においてわざわざ言う必要のあるものでは、必ずしもないであろうと考えられます。
なぜなら交際とは友情、愛情という「心の通じ合い」「心の絆」によって、
結果的に、自発的に、「つきあっている」状態になるのであって、
必ずしも「友達になろう」「恋人になろう」と言ったからといって、
突然その通じ合い、絆、関係が構築されるとは限らないからです。
―「つきあって」の契約によって「つきあっている」状態は必ずしも「通じ合っている」とは限らない。
交際することを2つに分けるのならば「つきあっているからつきあっている」のか
「つきあっているわけじゃないけどつきあっている」のだと思います。
こんがらがらぬよう、ひもときます。
「つきあう」という契約をしたから「つきあっている」関係と、
「つきあう」と契約をしたわけではないが「つきあっている」関係です
私は「つきあう」という契約が、ずっと続くものと思い込んでいました。
しかしそれは私の脳が、身体が思い込んでいたもので、
私の心が、魂がそれにひっかかりを感じていました。
そして至ったのが、私が求めている「つきあう」とは契約上の関係ではないということです。
私の理想は、一瞬であり永遠であり、不滅である、不垢の絆でした。
契約によって続いていた関係は解除すると簡単にその縁は離れていきます。
まるで本当に消費者法で決められた取引のように、契約解除でいとも簡単に関係がなくなるのです。
つきあっているは、通じ合っていないのであれば、つきあっていないのと同じだと考えました。
そして、通じ合っているのであれば、「つきあって」の契約など不要で、つきあっていることに至るのだと、
そこで考えが整いました。
私は今までの契約による「恋愛関係」は信用足りえぬと思いました。
今後、良い縁が巡るような生き方へ向かい、徳を積むのみだとわかると、
とてもすがすがしい気分になりました。
今度は、身体の思い通りにはさせまいと誓い、
私の魂が求める魂に巡り合うのを、ただ待つのみです。
別れた恋人がその人ならば、契約などなしにまた還ってくるでしょうし、
またそうでないのなら、離れていくのでしょう。
一生寄り添うかもしれぬ相手を、条件反射や、身体の欲望に決めさせるなんて、
私にはできません。
半生、大切なことに気づけぬ子がまた生まれてしまうから。
私は私を受け入れますが、私の子に私が歩んだ人生をとてもではないが、与えたくありません。
そのような可能性があるお付き合いは、今後一切断ち切るべしと、心に誓いました。
生まれたことに、両親に、先祖に、世界に感謝できず、半生恨み抜いた私の思いは、
決して子に味あわせたくないのです。
私は私の育った環境を良く思えません。
運が良かったとは思います。
こうして抜け出し、残りの人生でやり直しができる縁にめぐりあえたのだから。
今は、とても前向きで、生まれたことに、ここまで生きてきたことに、
そうさせてくれた全てに、感謝できます。
幸福になるために、手に入れなくてはいけないものなど何一つないと気づきました。
ただ、手に入れたものは、他人を幸福にすることや、救うことには使えるのだと思います。
自己の幸福に必要なものは、生まれたときに全てそろっていると考えます。
「私が幸福になるために、欠けているものなど何一つない」と、
心から思えるきっかけに運良くあえたのなら、人はたちまち幸福になるのだと思います。
これからはいざ他人を幸福にする機会が訪れたときに、
使えるものがあるように、ものを手に入れたいと思うし、
自分の幸福のためには、心を磨くことそれのみに没頭しようと思います。
「つきあっているはつきあっていない つきあっていないはつきあっている
有は無 無は有」
「言葉で縛ること、力で縛ることは有限
心で通じ合うこと、魂でつながる絆は無限」
すり鉢の底から、解放の兆しが見えました。
練習です
進まない練習、後退する練習
赤卵さんは前に前進す進んでるのに
僕は怖いからッ進めないので、過去浸る
笑え笑え笑えばいいよ。
まだまだ足りない、何か足りない。
昔の様な勢いが、無い
お、おおお、お前ら、ば、馬鹿にするなよ、おぉぉい、おい?
ふ、ふざけるなよふざ、なめてるだろ?な、なめ、
今こんな感じに昔の様な文章を打つと、
な、なんだか、わざとらしいというか、
痣あざあざあざといというか、
なんかんあなんかちがうだろ、ちが、たい
むずましいな、え?
や、やっぱりわざとらしくななな、なるか、なってるな
装ってる感じがすご、出てる、駄目、駄目だ
むか、ま
昔の、僕にすら、馬鹿に馬鹿にされてるな馬鹿にされてる
嫌だ、昔の僕にすら、勝てm、無い
あ、あああ、ああ
駄目だ、止め止め、全然ノらねぇよ
進まない練習、後退する練習
赤卵さんは前に前進す進んでるのに
僕は怖いからッ進めないので、過去浸る
笑え笑え笑えばいいよ。
まだまだ足りない、何か足りない。
昔の様な勢いが、無い
お、おおお、お前ら、ば、馬鹿にするなよ、おぉぉい、おい?
ふ、ふざけるなよふざ、なめてるだろ?な、なめ、
今こんな感じに昔の様な文章を打つと、
な、なんだか、わざとらしいというか、
痣あざあざあざといというか、
なんかんあなんかちがうだろ、ちが、たい
むずましいな、え?
や、やっぱりわざとらしくななな、なるか、なってるな
装ってる感じがすご、出てる、駄目、駄目だ
むか、ま
昔の、僕にすら、馬鹿に馬鹿にされてるな馬鹿にされてる
嫌だ、昔の僕にすら、勝てm、無い
あ、あああ、ああ
駄目だ、止め止め、全然ノらねぇよ
何もなかったのです。
何年生きようが、その間何を思おうが、
何も残らなければ何もなかったという事です。
でも、大抵は何も無いどころか何かが無くなっているのです。
でも、何か思っていたのなら、何も無いという訳でもなく、思いは残るので
何も無かったというのはちょっと違う気がしますが、
何か考えてれば、それが実体を成すという事は無いですし、
思いも、脳が機能を停止すれば何も残らないので
やっぱり何も無いのかな?と思います。
でも、人体が停止して、人体が土に還れば、私自身が何も残らないのですから
何年生きて、何を思って、何をして、何を作っても
作ったものが残っていても私自体は残らないのですから、
何かを残しても、最後は結局同じですから、なんだか虚しいなぁ、と思ったり
だったら、何も作らず、何もせず、何も考えない方が楽ですし、
何もしなければいいのかなぁ、と思うとそれはもっと虚しいですね。
だからそんな下らない事考えるのは不毛ですし
何か作りたくて作れそうなら作って、無理そうなら諦めて
また何か考えて、テキトーに生きていけばいいんですね。
全然難しくない、普通、に生きればいいんですね。
でも、なんと言いますか、欲求があると、なんというか、
満たせない時の寂しさ、満たせた時の傲慢さ、
なんか、なんだかなぁ、となんだかんだと、
えぇ、
ぁ、別に文章に意味は無いです。気晴らしに長文書きたくなっただけで
書きたくなったからテキトーに書いただけです。
それだけです
それでいいと思います
何年生きようが、その間何を思おうが、
何も残らなければ何もなかったという事です。
でも、大抵は何も無いどころか何かが無くなっているのです。
でも、何か思っていたのなら、何も無いという訳でもなく、思いは残るので
何も無かったというのはちょっと違う気がしますが、
何か考えてれば、それが実体を成すという事は無いですし、
思いも、脳が機能を停止すれば何も残らないので
やっぱり何も無いのかな?と思います。
でも、人体が停止して、人体が土に還れば、私自身が何も残らないのですから
何年生きて、何を思って、何をして、何を作っても
作ったものが残っていても私自体は残らないのですから、
何かを残しても、最後は結局同じですから、なんだか虚しいなぁ、と思ったり
だったら、何も作らず、何もせず、何も考えない方が楽ですし、
何もしなければいいのかなぁ、と思うとそれはもっと虚しいですね。
だからそんな下らない事考えるのは不毛ですし
何か作りたくて作れそうなら作って、無理そうなら諦めて
また何か考えて、テキトーに生きていけばいいんですね。
全然難しくない、普通、に生きればいいんですね。
でも、なんと言いますか、欲求があると、なんというか、
満たせない時の寂しさ、満たせた時の傲慢さ、
なんか、なんだかなぁ、となんだかんだと、
えぇ、
ぁ、別に文章に意味は無いです。気晴らしに長文書きたくなっただけで
書きたくなったからテキトーに書いただけです。
それだけです
それでいいと思います



